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  清風堂だより

9月29日
足腰、絶不調 本が読める

足腰は9月9日から絶不調。左膝に来ている。ヒアルロンサンを三回打った。なぜか本だけが読める。

『阪堺電車177号の追憶』(山本巧次 ハヤカワ文庫 2017.9)第六回大阪ほんま本大賞。天王寺、阿倍野、帝塚山、住吉大社と住民の物語を活写する。年代は昭和8年〜平成29年迄。私にも懐かしいチンチン電車。先頃読んだ『飛田ホテル』『西成山王ホテル』(黒岩重吾 ちくま文庫)とは全く違う庶民の喜怒哀楽である。戦前の重要問題にもサラリと触れた177号の語りが爽やかな読後感を醸し出す。

『そろそろ左派は<経済>を語ろう』(ブレデイみかこ 松雄 匡 北田曉大 亜紀書房 2018.5)。なになに、欧州の反緊縮派とアベノミクスは同じだって?

『世紀の小説「レ・ミゼラブルの誕生」』(ディヴィッド・ベロス 立石光子訳 白水社 3800円 2018.7)。これは随分と読み応えがあった。正にヴィクトル・ユゴーとレミゼの伝記だね。長男シャルルのミュージカル演出が今日も踏襲されているというネタもあった。

『ルポひきこもり未満−レールから外れた人たち』(池上正樹 集英社新書 2018.9)。
8月1日
台風の後の里山歩き

「本日の府民の森は入園できません」と森の中で出会った管理者に言われた。「この下の獅子窟寺から来ましたが、何も書付はありませんでしたよ」。
 「気をつけて早く降りて下さい」「有難う」とそれからまだ300段の階段を登ったり1時間余りウロウロして下山した。その間にもう1人の見回りの方から注意を受けた。
 大体、「山」に入るのにしかも大風の後は、上から折れた枝などが落ちてこないかそれなりにきょろきょろしながら歩くものである。管理が行き届いていることは結構なことでは或る。もうこの山には30年来お世話になっているが、お二人からも声を掛けられたのは初めてのことだった。
 この間『僕らの社会主義』(国分功一郎 山崎亮 2018.7 ちくま新書)と『日本の崩壊』(御厨貴 木村凌二 2018.7 祥伝社新書)を読んだ。
 前書にあるニューラナークのロバート・オウエンの紡績工場に付属した世界初の保育所跡をかって訪ねたことがあった。あの辺りに空想的社会主義者のコミュニテイ創造の場があり、その考え方が誕生させたロッチデール「生協」(マンチェスター)が今なお続いている。と1700年代のイギリス断面が活写されており触発された。
 
7月2日
脊柱管狭窄症を背負いてー仙骨と腸骨を冷やすNO3

先日ヨドバシカメラで万歩計を求めた。もうこのニ三年着けていない。それが何としたことか。気になり始めた。

朝、家からの30分はまだつらい。左腰が15分もすると痛み出す。信号で止まると直る。電車に乗って25分、これでほぼ

回復し、下車後の歩行40分ほどはまずまずと言ったところである。昨日は裏山2時間コースをこなした。ふと万歩計を

見ると8000歩だったか。遅いことが良いようだ。怪しい整骨院は二週間に一回になった。先生曰く「冷やして痛みを

とって、歩いて下さい。自然治癒力が働きます」。

この間『誰にもわかるハイデガー』(筒井康隆 河出書房新社 2018.5.30)と『夫婦という他人』(下重暁子 講談

社 2018.6.21)を読んだ。似たような本だと言えば語弊が或るか。
6月5日
仙骨と腸骨を氷水で冷やすNO2

 4月16日に激痛が走って、約一ヵ月半。冷や冷やしながら何とか「順調」である。嬉しい。

 今朝も天満橋駅で降車し、大川端に出るともやっとした冷気が頬を撫でてほっとし心が安らぐ。

 今週の日曜日は裏山2時間コースをこなした。ちょっと左ひざに違和感が出ている。騙し騙しゆっくり歩いている。

 『新・冒険論』(角幡唯輔 集英社新書 2018.4.11)と『戦場放浪記』(吉岡逸夫 平凡新書 2018.5.15)を読ん

だ。角幡氏のいう「冒険は高度なスポーツではない」という言に従えば「戦場放浪記」は冒険に該当するのか。などと

読者特有の気楽な空中散歩を試みていた。本は良いよな! 
 
2018年5月24日
仙骨と腸骨を氷水で冷やす

 怪しい整骨院が今のところ救ってくれている。3週間前は3分と歩けなかった。表題のように朝晩40〜50分冷やすこととスクワット、それに畳みの上を2分四足で這ってそのまま静止姿勢で5分間。朝晩2回繰り返している。

 先々週と今週の日曜日には標高150〜250mを50分と約1時間20分の歩行まで回復した。テニスボール療法は中止している。

 朝の30分ウォーキング2回もボツボツ可能になって来た。来たのであるが時々右膝、左足の大腿骨付近や付け根に痛みが出る。しばらく歩いていると消えていく。しかし危険を感じるので痛みの出ない歩き方を工夫している。階段を登る時に左足に力が入らない。これはどうしたことか。
 5月2日から明日で5回目の整骨院である。この間整形外科にも3回通った。これは4月24日にブロック注射を打った後、主に症状を尋ねて痛み止めを投薬してもらっている。
 
 兎に角歩けるようになるまで、手当たり次第に数種類の本、針灸、整骨院、ブロック注射、投薬を行っている。まだまだよちよち歩きの状態だ。
 2回目の手術を回避してうまく行ってくれるのを願うばかりである。
 
5月8日
突然の足腰絶不調からほうほうのテイ生還

 4月に入って、この半年〜1年になるだろうか、ほぼ足腰も快調なので六甲山を目指して、少しハードに鍛錬を課してみよう。などとまたぞろ「山」復帰の欲望が芽ばえ始めた。4/8(日)だったか毎週裏山の2時間半の行程を一気に4時間まで引き上げた。4/9からの週は東京出張もこなして普段どおりであった。4/15(日)は雨だったので、ハイキングはお休み。
 所がである。ニ三日前から故障している左腰を下にして就寝をし始めた。これがどんな事でそうなったのか未だに分からない。この姿勢はもう長い間タブーであったのに。それも二日も続けた。「もう大丈夫だ」との安心感からか。
 月曜の朝、左足腰に激痛が走った。一体どうなったのだ。ハミガキもままならない。這っても痛い。テニスボール治療も痛みが増すだけ。駅まで3分が遠い。
 もう忘れかけていた整形外科を思い出し、取り合えず水曜からの東京出張に備えた。東京の移動はすべてタクシー。絶望的な気分でこの週末から4/21〜4/23にかけて休んだ。しかし一縷の望みを掛けて折込チラシの整骨院に戸口からタクシーで出かけた。
2018年2月8日
こわごわ読んだ『わたしを離さないで』

 カズオ・イシグロを二冊読んだので、ついでにもう一冊と手にとったのが表記のもの。この著者を読み始めるに当たって、先ず数冊物色しその時臓器移植のクローン人間の世界と解説があったので、これだけは手にしないと決めていた。
 それなのに読み進むうちにそのものずばりの本だと分かってきて「シマッタ」と思ったが後の祭り。
 それにしても流石に読しますね。
 直木賞『宮沢賢治の父』(門井 慶喜 講談社)は早速にも読みたかったが、なかなか入荷しなかった。それはさて置き、これまで賢治の童話と小説はほぼ読んできた。しかし『春と修羅』は難しいと思い込んでいて手付かずであった。それに質屋の父は賢治に無理解で彼を度々窮地に追い込んできたとばかり思い込んでいたのだ。
 それが、今度の本で両方ともあっさりすっきりした。
 今『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子 河出書房)に取り掛かっている。おもしろい。私も同じような年齢になった。とつくづく思う。
 
 
 
2018年1月15日
レイモンド・チャンドラー

 カズオ・イシグロを読んでいたら村上春樹がレイモンド・チャンドラーの翻訳本を10年かかってやり遂げた。との談話が新聞に上下で載っていた。その上2人はチャンドラーに大いなる影響を受けたのだと。

 なるほど。それならと『高い窓』にとりかかった。ハードボイルドものは、片岡義男、北方謙三、大沢在昌、船戸与一などを巡ってきた。特にハヤカワにはペリーローダンシリーズ位しか関わっていない。30年の空白をもって戻ってきたのであった。
 
 コア・ヌードルは今のところ私にとっては不調である。しばらく様子をみることにした。
 
12月18日
取り掛かり始めた2点目

『わたしたちが孤児だったころ』(カズオ・イシグロ ハヤカワ文庫 2000年)を読み終えた。何しろ次のノーベル文学賞は、村上春樹と喧伝されて久しいので、最近の新刊は必ず読んでいた。なのでイシグロの本を読みながら、どうしても春樹が浮かんでくるのだ。
 でもわたしにとって、「難解」な春樹のお陰でイシグロは随分とスイスイ進んでしまった。これはどうしたことか。 今、二冊目の『忘れられた巨人』(2017.10)に入っている。

 前回書いた『脊椎管狭窄症をトレーニングで治す』にもとりかかった。
 ”コア・ヌードル”という芯の入ったスポンジ状の棒を二本括ったものを敷き背骨がその間にくるように仰向けに寝る。この状態で、背骨を支えている様々な筋肉を鍛えると言うものである。

 『脊椎管狭窄症ー自分で治せる』は二個のテニスボールをつなぎそれを、背骨の腰や4.5関節の上、それに肩甲骨の下に当てて上向きに寝るというものである。これは只、寝るだけ。先のものは色々なトレーニングを行うのである。
 今年の3月頃初めて、現在は毎朝、出勤途上一時間半のウォーキングと週一に320メートルの裏山に2時間半かけてハイキングができるまで回復している。

 これを来年の春には六甲山ハイキングにまで高めたいのである。その新武器を手に入れたようだが。
 さて、どうなるのか。
 
2017年11月27日
この1か月に読んだ本

@『脊柱管狭窄症をトレーニングで治す』(稲葉晃子 ミネルヴァ書房 2200円 2017.10)これは、前に『脊柱管狭窄症−自分で治せる』(酒井慎太郎 学研 1100円 2016.3)を実践して、現在毎朝1時間半のウォーキングと週一に裏山320m・3時間ハイキングが可能になった。とても感謝に耐えないのである。しかし痺れはあるし、痛みもでる。ということで更に昔のようにならないのかとの欲望が起きてきていた。その時、新聞広告で見つけたものである。読了したが実践はこれからである。

A『新版 はじまりのレーニン』(中沢新一 岩波現代文庫 1140円 2017.10)ロシア革命100周年を思い出して読んだ。難しかったが、『唯物論と経験批判論』(これはかって読んだ)と『哲学ノート』(これは難しくって手を出そうともしなかった)の違いの飛躍にヘーゲル弁証法が介在しているとあってとても新鮮であった。

B『日本会議の正体』(青木 理 平凡新書 2016.7)11/1に上げた続編として読んでみた。ちょっと視点が違っていて、しかも読みやすくて結構でした。

読んでばかりでなくて、もうそろそろ企画しなくてはとも思うが、どうであろうか。
11月1日
新書が読みたい

『日本会議の研究』(菅野完 2016.5 扶桑新書)『労働者階級の反乱―英国のEU離脱』(ブレディ・みかこ 2017.10 光文社新書)『戦いすんで日が暮れて』『それでもこの世は悪くなかった』(佐藤愛子)『世代の痛み−団塊ジュニアから団塊への質問状』(上野千鶴子+雨宮処凛 2017.10 中公新書)を読んで、『セックスと超高齢化社会』(坂爪真吾 2017.2 NHK新書)に移っている。

何か矢庭に新書が読みたくなっている。

『日本会議〜』は遅ればせながらというところか。新しく出来た党の首班指名の方は同会議国会議員懇談会の副会長だそうだ。今の議員の何人が同会議に属しているのか。分からないほど多いようだ。そんな生々しいことが分かった。本を読まないと新聞だけでは塊が入ってこない。

 そー言えばカズオ・イシグロさんの本も早く読みたいよな。
10月16日
これでは商売がおぼつかない

 いよいよ今年の到達点として、東山・大文字山(466m)を選んだ。10/8(日)。
 山科の毘沙門天から入り、1時間ほどで到達。京都市内を一望にして、はるか西の方角には大阪梅田のビル群やアベノのハルカス(300m)も霞んでいるが良く見えた。
 南禅寺に降り狩野派を楽しんだ後、京都文化博物館に。
 折からの「絵画の愉しみ、画家のたくらみ」企画展を観る。横山大観、上村松園、黒田清輝、岸田劉生のたくらみを堪能した。
 昨年は脊柱管狭窄症の症状が思わしくなく、本当に悔しい思いをした。
 今年はテニスボール2個を仙腸関節に当てる方法で軽快に向かった。1回の歩きは30分以内にと書かれてあるが、毎朝1時間半歩いている。週一には普見山獅子窟寺に2時間ほど。
 どうなのかな。また再発しなければ良いが。
 と思いながら、なんとか六甲山に登り有馬で一風呂浴びたいものよ。後のビールを思い出すとよだれがでる。
 これでは、傾きかけた商売の立て直しもおぼつかないね。
 南無南無。
2017年10月5日
1年半かかった

『街道を行く』(全43巻)を読み終えた。まあその『戦争と平和』や『レミゼ』『ドンキホーテ』『西遊記』『大菩薩峠』など長編モノが好きで挑戦してきたが、これ程のものはかってなかった。
 記念にというか、試しに大徳寺の秋の特別公開を観て来た。同書34巻を読み直しつつ。
 折から修学旅行生徒への「この三門・金毛閣があの有名な千利休の切腹を招いたものです」との甲高い案内の声を聞きながらやり過ごした。作者は秀吉と利休両者の肥大化が抑え切れなくて起きたのではとまとめていたように思う。
 再興の祖一休和尚の真珠庵は覗けなかったが、77歳で巡りあった森女と88歳まで共にしたある『狂雲集』にも目を通したいと思いもした。
 読書の秋だよね。
 
2017年9月6日
映画は月2回観る

 と決めているわけではないが、残り少ない人生だから。
 この間兵庫で2軒の書店が閉店した。東京では長年敬愛のまなざしで注目してきた書店が一店、一店と閉まる。絶不調の業界に身を沈めていると胃どころか体中が悲鳴を上げる。
 9月3日はロンドン・オペラ・ハウスのバレエ「真夏の夜の夢」ほか3作品を観てきた。もちろん映画で。日本人プリンシバルの高田茜さんが妖精王の妻ティターニァを演じている。ことが話題だそうだ。

 窓口で前回(4月・椿姫)の半券が有るけど割引はと問うと「これはMETではありませんから」とにべも無い。
 シニア割引に慣れ親しんでいると特別料金はコタエルのである。
 
 
2017年8月25日
大阪本屋大賞『幻坂』(有栖川有栖)

 「社長は書評を書いてください」。「店長はツイッターをちょこちょこと上手に書いてまんな」と言った時に言われたのである。そんならと話題の『影裏』(沼田真佑 文春 芥川賞)、『月の満ち欠け』(佐藤正午 岩波 直木賞)と表記の3冊を一篇にしてもうたれ。と意気込んだ。が。読む尻から忘れるのである。とても書くどころではない。

 大阪上町台地に架る7坂は有名だがふと気づいたことがある。

 親父が青年時代に修行していたと言っていた宝泉寺(谷町9丁目 日昌上人の時に日蓮宗に改宗)である。彼は福井の南越前にある妙泰寺に5才で貰われたそうだ。小学校で天皇と日蓮上人のどちらが偉いのか比べる言い合いしひと悶着あったそうだ。長じて新興仏教青年同盟の福井の支部長になり治安維持法で福井の刑務所に3年余り服役する。
 すっかり忘れていたことが幻のように蘇った今年の夏であった。
2017年8月6日
「この世界の片隅に」が観れた

 昨日、血圧降下剤を朝夕と二回も服用してしまった。そのため今朝の血圧が80−58と出た。初めてだ。日曜恒例の獅子窟寺参りを中止し「海辺の生と死」を観ようと電車の中でスマホをいじくっていた。確か12:20だったよなと。
 すると9:50から標記の映画を1日1回映すとある。う〜んこれは前から狙っていたのだが、機会が巡ってこなかった。好きな映画で一杯の観客を掻き分けていくのも如何なものかと常々思っているのだ。
 今回はこれだな。と駆け込んだわけだ。すると予想に反して、なんだか列をつくっているではないか。ええっまだこんなに流行っているのか。食傷気味に並んで入った。終わってみるとつーと右目から涙が一筋流れていた。
 気がつくと本日は8月6日であった。
2017年7月25日
夜店が一杯の天神まつり

 朝の出勤、ウォーキングコースに天神祭り船渡御の乗降船場がある。今日は一部分「乗船券お持ちの方以外は入場禁止」の札が掛かっていた。その辺り一体に所狭しと夜店が出ている。好物のさざえの壷焼きは800円とあった。ビールでいただくと堪え切れないだろう。一方でいつも渉っている通称やじろべえ橋は18:00〜23:00通行止めとある。毛馬桜宮公園で打ち上げられる花火と下を通る色とりどりに行灯で飾り立てた約100艘の船見物である。危険なのか。
 この2ヶ月ほど40分+70分の歩行が可能になっている。嬉しい。上半身はTシャツの下にタオルを忍ばせている。会社に着くと着替えるのである。文字通り汗だく。気持ちが悪くて気持ちが良い。「夏だよなー」という気分である。前半の40分は青々とした田んぼの中。後半は先に記した大川公園ー中之島である。
 痛みは少しあるが、テニスボールの治療で何とかなっている。
 様子を診ているが、この間直ぐにタクシーに乗りたがる2人に勧めてみた。どうかな?
2017年6月13日
今日はこれから閉店予告者を訪ねる

 ええっ!今月上旬の既存店コミックは80%を割っているって。昨夜は寝つきが悪く夢を3回も見た。これもそうだろう。しかし、自店の店売りは正直だからな。
 6/10(土)は業界の会議をハネてから久しぶりに飲みすぎた。調子に乗ってカラオケをやっていたら、ママ以外誰も居なくなっていた。幸いこの夜の乗り過ごしは無かった。景気の悪いのは身体にも良くない。
 このところ毎週、裏山に上り、毎日1時間半のウォーキングが出来るようになった。しかし徐々に左足裏に痛みが出てきているようだ。自重しなければ。と思っていたら、出勤途上で飲み屋の常連にバッタリ会った。
 社長脊柱管狭窄症でしたなと声をかけられた。ついで私手術を考えているのですがどうでしょうかと問いかけられ、慌てなさんな、近いうちに例のところで会いましょうかとなった。
 
 この病の方は周りに何人もいるようだ。
 
2017年5月29日
身体も人生も軋んでいる

 5/21(日)はとうとう我慢できなくて、大和葛城山(959m)に登った。
 100万本と言われているツツジが目当てであった。この山にはダイヤモンドトレイルも含めて、颯爽と十数回通ったはずだ。今は最早その片鱗も無い一時間待ちのロープウエイで。
 まあ見事な満開のピンクというかオレンジがかった山一杯の花々が、豪華で美しい。
 昨日は、また裏山である。少し距離を延ばして、2時間。スズメバチ出ますの標識に怯えながら、初夏のウグイスの涼やかなさえずりが軋む心を癒してくれた。
 自然はいい。
 が。脊椎管狭窄症は悲鳴を上げている。身体が軋む。
 山を降りて「マンチェスター・バイ・ザ・シー」に入ったが、満席で一番前のシート。
 仰向けで頚椎に負担が掛かったが、映画はシリアスでほのぼのと暖かく感じた。
 
2017年5月9日
京都七条辺り

 海北友松展・京都国立博物館に長谷川等伯の智積院、それに120m一杯に広がる救いの千手観音1001躯・三十三間堂―京都七条辺り。
 嫁はんに「1人でばっかりほっつき歩いてんと偶には連れて行きなはれ」と言われて久しい。「もうそろそろ実行せんと口もきいてくれんようになる」と練ったコースである。
 これには二つの裏がある。
 ひとつは「お寺の仏像を見に行くだけやったら行きまへんで」と釘を刺されてもいた。そんなら絵画か。庭やな。
 ふたつは『街道を行く』の32巻だったかに根来寺と智積院が記されていて、触手を動かしていたのである。大日如来の謂れも書いてあったし「身・語・心」と「即身仏」をその目になって見直してみたい。それに昼飯も取れるみたいやし。
 連休の結果は如何に。
2017年5月4日
一歩前進二歩後退

 年を取るとこの言葉の意味が実感として身体の中に入ってくる。結局脊柱管狭窄症は痛いのを我慢して、じっとしていればそのままかもっと悪くなるということではないか。この種の本も沢山でているので、数種類読んでやってみようと思ったものを自分流に実践することだと思う。今も左足裏が痺れて痛む。痛むが止まる。このまま進行していけば歩けなくなるかもという不安がよぎる。
 まあしかし、前回の4/16から3週間連続して裏山(標高320m、往復1時間40〜50分)に入っている。花粉と黄砂でくしゃみは酷くなったが、足腰の状況は変わらない。むしろ出勤前に30分ずつ二回都合一時間程歩けるようになってきた。歩いていると緩やかな痛みが足腰の周りを刻々と位置を変えているのが分かるようになってきた。しかし流石に会社に到着すると「だるくて鈍痛」がしている気がする。「やばい」のではないか。電車も立っているといいのだが、座って喜んでいると座席の背もたれと背中の触れ具合が悪いと右膝に痛みが走り出す。背もたれから離れると直るのである。
 やはり脊柱管に異常がある。術後5年だがなんぎなこっちゃ。
 表題の意味は弁証法的に質を追求しているのかもしれないが。考えている暇も無い。
2017年4月17日
一月半ぶりに裏山に

 歩き出して10分ほどすると左足の太腿が張ってきて、スピードががくんと落ちる。それ以上続けると痛みが出て、右足の大腿骨がなんとなく軋み出す。この繰り返しを一月半繰り返していた。
 切が無いので、4/16に「行ってみるか」と実行した。低い尾根筋だが、山つつじが群生していてトンネルをつくっている。淡いピンクに染まった山肌を織りなして谷に落ちていく。もう都合30年も通っているのに中々出くわさないのである。それに登り下りは痛みにあまり影響しないのはなぜか分からない。
 今年はラッキーだった。
 降りてきて「ムーン・ライト」を観た。二重三重にからまる複雑な生き方がアカデミー賞に輝いたのだろうか。少し頭が痛かった。
 今日は昼休みに「水木しげる展」を鑑賞した。南方戦線で九死に一生を得た作者が今や日本史上最大ともいえる規模で妖怪を再現している。京極夏彦さんと宮部みゆきさんの「送る言葉」が印象的だった。
 
2017年4月4日
やっと『街道をゆく29』に戻ってきた

 イデアとメタファに翻弄されて、読了した『騎士団長殺し』上下一千ページもあった。
 それに続いて直木賞である。
 『蜜蜂と遠雷』これは息もつかせずに終わった。今週末に朝9:50分からステーションシネマに掛かるMETの椿姫が聞きたくなった。『夜のピクニック』もそうだったが。恩田陸は巧い。
 さて、脊椎管狭窄症だが、先週から絶不調になっている。何か左足の太腿が吊るようで、少し歩くと痛みが出る。それを左足がかばい、無理をすると歩行困難に陥る。
 先々週は1万5,6千歩を毎日闊歩していたのだが…。裏山に2時間程ゆっくり入ってくると調子がよくなって、これか!と錯覚したのがいけなかったか。今のところ途切れ途切れに日に1万歩弱。これとて何時までつづくことやら。1,2月それに3月の中盤までは六甲山アタックを思わせたが、ダウンしている。
 
2017年3月12日
『騎士団長殺し』を誰よりも早く

『騎士団長殺し』を誰よりも早く読みたいと思って買った。ふむふむ今回の春樹は読み易いではないか。と上巻三分の二辺りで余裕をかましていた。
 一瞬のしじまに『アウトサイダー』(フレデリック・フォーサイス)と『「革命」再考ー資本主義後の世界に想う』(的場昭弘)いずれもカドカワ刊に目がいった。
 前書では臨場感あるれる戦場の記述に心を捉えられ、旧東ドイツの警察組織には元隠れナチが大勢いたという話が焼きついた。
 後書よりフランス革命とロベスピエールの関係から革命→自由→(他人に迷惑を掛けない)拝金主義→政治に無関心→独裁の堂々巡りにトランプ現象が生々しくダブってきた。
 少し気になって若手の社員に聞くと上巻を読了したそうだ。もう戻らないと間に合わない。
 間隔をあまり空けずに書いて欲しいと店長に言われている。読むのはいいが、書くのはむずかしい。
2017年2月8日
『街道をゆく』

 只今27巻。読み始めたのは、昨年の5月頃でしたか。途中で止めてしまう危険も感じていましたが、3分の2程も来てしまいました。覚えて置きたい記載がたくさんあって、ページを折っているのです。でも内容は直ぐに忘れてしまいます。縦横無尽に走る膨大な知識量に圧倒されています。
 昨夜は中学校時代の同級生と10年ぶりに甘露なお酒を酌み交わしました。彼も脊柱管狭窄症を患っているそうで、話が合いました。スナックでカラオケも共にしました。100歳まで生きるそうです。羨ましい。
 結局1月は先の獅子窟寺は5回通い、映画は「沈黙」「スノーデン」「復活ロマンポルノ」の3本。美術館1回、東京に1回といったことで、新年会は10回もあったかな。
2017年1月17日
3人の読者

 1/3、1/8、1/15と今年に入って、3回交野の獅子窟寺詣でをしました。初回は正月でもあり、国宝・薬師如来が開帳されていました。もう30年を超えて通っているのに初めて出会った文字通りの慶賀ででした。そんなこともあって、脊椎間狭窄症の調子がいいのかも知れません。先日は初雪に見舞われました。うっすらと雪化粧した登山道をゆっくり歩いていると足が、隠れた木の根につまずき滑るのです。相当軟弱になっているのが否応無く分かります。
 昨夜の組合支部総会兼新年会では、今年90歳をお迎えになる現役の書店主が、歩くと足腰膝が痛みます。しかしバイクで配達できる間は商売を続けたい。お宅の店の周りに美容室が3軒あるのです。とビールを干されておられました。夏の免許更新が心配ですとも。同席の理事の方が、最近山登りの話は書かれませんなあと耳打ちしてくれました。3人の読者がいるのかな。
2017年1月6日
脊柱管狭窄症3度目の正直その1

 新年 明けましておめでとう御座います。
 と言いますのも、一昨年11月に3度目のダウンを喫し、絶望の砦に囲まれていました。少し歩けば痛くて、それを我慢してゆっくりゆっくり歩いても繰り返すことが出来ない状態が10ヶ月も続きました。
 昨秋湖東三山をバスで巡りました。坂をとぼとぼ登りましたが、痛みがあまり出ませんでした。
 それからでしょうか、少しずつ距離が伸びるようになってきました。
 この間3冊の『自分で直す』本を読み、テニスボール2個でお尻の上端と背中の腕の付け根に夫々3分間ずつ仰向けに被さりました。1日3回。
 これは気持ちが良くて、半年も続いているでしょうか。
 それと1月3日にとうとう交野市の獅子窟寺の上方に300メートル程登って見ました。が意外と調子が良くて痛みが出ません。色々同病の方々から情報も頂戴しました。それも含めて少しずつ書いてみましょうか。
 やっと毎朝1時間歩けるようになりました。執念ですね。
2017.01.05
新年 あけましておめでとうございます

 新年 あけましておめでとうございます。
 旧年中は、大変お世話になりまして、ありがとうございます。本年も当店を益々ご利用いただけますようお願い申し上げます。
 また、皆様におかれましては、楽しいお正月をご家族様といっしょに過ごされたことと思います。
 新春のさわやかな空気を胸いっぱい吸って、清風堂書店は歩み続けます。皆様のご支援をいただけますよう重ねてお願い申し上げます。 文責蒔田
2016.12.20
清風堂書店を応援してくださる皆様へ

 年の瀬も近くなり、あわただしい毎日をお過ごしのことと思います。
 清風堂書店は、本年9月にリニューアルオープンし、教育書の店もB2階に新たにオープンいたしました。
 日頃、ご愛顧いただいております皆さまより「明るくなったね」などご意見をいただき、誠にありがとうございました。
 しかし、今、出版・流通・販売の世界は、まさに嵐の中にあります。
 清風堂書店は新たな気持ちで前に向かって進みます。
 皆さまのお力添えをよろしくお願い申し上げます。文責蒔田
2016年2月8日
2ヶ月で良くなったと思ったら・・・

 只今悪戦苦闘中NO2。先週は2ヶ月半ぶりにかなり回復し、ぼちぼち投稿しようかなと思っていたが、何が起きたのか2/7昨日から痛みが少し出始めた。右膝である。この二ヶ月間は一日5000歩以下の状態が続いた。陽に当たる時間が極端に少なくなってしまい、心なしか頬が白くなってきた。しみが目立つ。とともに骨も脆くなる。朝星夜星の地下生活者(事務所ばB3F)はつらいのだ。一週間ほど調子が良かったので、1万歩にしても痛みを感じることが無かった。ふむふむといったか状態であった。しかしである、急いだのかなあ。歳は取りたくないですね。しばらく見てみましょう。また経過報告いたします。
2015年12月7日
1年半ぶりに再発か

 只今悪戦苦闘中。11/15に裏山に入った。たった2時間程で何時ものように降りてきて仕事に付いた。翌月曜日、歩き出すと直ぐに右の腰が痛み出した。おかしいのである。と思いながら2泊3日の出張もこなして1週間が過ぎた。もちろん痛みを堪えて毎朝2時間近くのウォーキングも続けた。何時もなら2,3日で元通りになる。それが甘くない。次週もそうなったが痛みが引かない。これはと考えて1年半ぶりに鍼灸院を土曜日(11/28)に予約した。そしてついに12/5には2年半ぶりに初診の医院を訪ねた。術後4年になる。改めてMRIも撮った。結果は炎症を起こして腫れているようだ。安静にということであった。
 2011年11月に手術をし、2014年5月に室生寺ハイキングまで回復し感動したのであった。それから1年半もう大丈夫だと安心してしまっていた。
 ところがである。
 何と言うことか。元の木阿弥になった。また報告しよう。
2015年10月21日
4

10/12曾爾高原−倶留尊山(1037m)に行ってきた。朝6:53に近鉄鶴橋駅を発って7:37名張駅着、三重交通8:05に乗り換えて、8:40に太良路バス停(387m)に着き、戻ってきたのが14:10。都合5時間半、歩行時間は4時間半程か。地図の案内より30分ほど掛かった。もちろん初めてだが、ススキの名所でマイカーが多く渋滞していた。 
 山頂までは曾爾高原ファームガーデン、青少年自然の家、二本ボソ(996m)それにお亀の湯・池がある。今回の収穫は、二本ボソから倶留尊山への往復1時間のアップダウンが何事も無くこなせたことである。ロープがあってかなりな急勾配である。術後4年とはいえ、まだまだ神経の回復は十分ではなく、足の筋肉も少し無理をすると硬直する。もちろん老化もある。帰りにガーデンの露店で買った草もちも殊の外美味しかった。
2015年10月4日
術後4年を迎える脊柱管狭窄症

やっと涼しい風に巡りあいほっとしております。先週の裏山・交野山は控えめに3回のアップダウンを目標とした。というのも7/19のダウンのあと8月下旬も再挑戦したが、やっと3回だった。それも足を引きずって。しかし先の9/27に続いて本日は「蚊」も殆ど無く快適なハイキングでありました。脊柱管狭窄症の治療といいますか、対処としてはいわゆるリハビリ体操は一切せずに、朝1.5〜2時間のウォーキングと隔週の低山徘徊がどうもいいようです。術後4年をもうすぐ迎えますが、私なりの回復方法を発見しました。
2015年8月29日
50周年

小社も来月いよいよ創立50周年。デカイ金字塔が忽然と現れた。しかし景気は悪く、お金は溜まっていない。書店、自費出版、出版、授業研究所講座開催と手に余る盛りだくさんに、ちょっかいを出して来ました。書店は13坪から出発して、難波や堺にも出店したこともあった。結局現在地で150坪に拡大した。また、しかしだ。一生懸命な社員の皆さんには悪いが、会社は泣かず飛ばずで火の車。業界は大手K出版社はアマゾンと直取引宣言、K大手書店は村上春樹最新刊を9割直で買占め、第四位の取次は民事再生。日書連は12000軒から4000軒へ激減。もちろん業界の売上も2兆6000億から1兆6000億へ。次の50年に遭遇することは不可能ですが、現段階では私の寿命の切れるのが早いか、会社のそれが先に来るのか。皆様どう思われますか。勝手にせい!知ったこっちゃないと。そうでしょう、「足腰闘病記」を忘れました。
2015年7月21日
足腰闘病記NO87

 5月18日からも随分と経った。光陰矢のごとし。これから益々早くなるだろう。しかし身体の移動運動能力は遅くなるばかりだ。
 7/19(日)雨模様の中、交野山(350m)へ向かった。この日は午後に映画「チャップリンからの贈り物」を観る予定があり4回のアップダウンを5時間で済ませてと軽く考えていた。
 2週間前の同じコースも最後に少し足が攣ったが、やっとここまで回復してきたとルンルン気分であった。六甲行きもと思ったのだが、台風11号の豪雨で有馬への降りは崩れているだろうと予想したのだ。
 蒸し暑く蚊がブンブン飛んでいる。何箇所噛まれても溢れる汗が癒してくれる。3回目の頂上間近、足が硬直した。これはどうした事だ。これまでの経験はこのつっぱり具合では無理をして全うするのは不可能だとランプが灯っている。確かに全身ズボンまでびっしょりである。ペットボトル3本空。小水は出ない。脱水症状か?4時間半かかって、ほうほうのテイで退散した。
2015年5月18日
足腰闘病記NO86

 NO85の3月14日から随分と経った。この間、ちょっと書評の真似事をしてみた。これは他人の書いたのを読むのも大変だが、自分がやってみるのはもっと大変だった。気負っている割には大した中身にはならない。まあちょいちょい試みては見るか。
 さて、昨日半年振りに阪急岡本から六甲山を経て有馬に降りた。入らしてもらっている二つほどの山の会からもこの日、例会の案内をいただいた。しかし今の私にはまだ付いていけそうにない。六甲銀座は予想通りの賑わいぶりであった。追い越されても慎重にゆっくりと終着の有馬まで足が耐えられるように願って歩いた。
 しかし予想通り一軒茶屋へあと20段でダウン。半年間の進歩は無かった。下りでは偶然にも行き付けの飲み屋のお客が追い越していった。後ろから来てよく分かるものだなと変な感心をしてしまった。
 1000円の温泉はあくまで気持ちよく、阪急梅田までのバス車中で舟を漕いでいた。
2015年5月12日
書評『子ども文化の現代史―遊び・メディア・サブカルチャーの奔流』(野上暁 元小学館クリエイティブ社長 大月書店刊 本体2000円 2015.3)

 本書を買ったのは、著者が編集を担当していた「小学1年生」が1972年に100万部を突破し、それは全国の当該学年の64%であったとの宣伝をどこかで聞いたからである。また、「少年ジャンプ」は1995年に653万部を記録しているとある。このように日本の子どもの雑誌の影響力は斯くも巨大であったのかという驚きもある。
 しかし、私はその中身を全く知らないで来た。というよりこれまでの長い人生に中でマンガに触れないで来たのである。著者と同い年であるのに。
 さらにまた、コミックの売り上げは年間4000億円であり、それは全出版物の25%を占めていると言われている。そのマンガの全体像を手塚治虫から妖怪ウオッチまで戦後70年を丁寧に経年で俯瞰している。これが大変有り難かった。小社はコミック専門店もやっているのであるから。
 しかし私は手塚以外ほとんど読んでいないので、これを書いてしまった後はすっかり忘れてしまっている。記憶力の極端な減退のなせる業か。
最後に著者は、現代社会の妖怪の跋扈は、自然への畏怖と大量生産大量消費への反省から過疎の見直しを生み、誌面上の遊び・野生だけではなく、自然の中での子どもの野生が蘇る声がしているのではないかと結んでいる。意味深である。
2015年4月30日
書評NO6最終回 『悪魔と裏切者−ルソーとヒューム』(山崎正一+串田孫一 ちくま文庫

 前回No5のフランス国王・ルイ15世のところがごちゃごちゃしてしまい申し訳ありませんでした。
 さて、本書の著者というか解説者3先生は、押しなべて、ヒュームがルソーの窮地を救済するために奔走したが、それはルソーの世界観と相容れなかった。だから事実の進行はルソーが言いがかりを付けている。しかしルソーの哲学的境地になぜか惹かれるのであると結論付けている。
 私どもは先に出版した本では、『エミール』を教育書の子どもの発達のバイブルとしてのみ見つめていて、哲学者としてのルソーにはなるべく触らないで来た。そして次にペスタロッチへと向かったのである。それ故、重田先生の「『理性は情念の奴隷だ』(『人間本正論』)とヒュームが断言した」と書かれているくだりには驚いてしまった。
 実はルソーへの「年金」が本書のキーワードではなかったのかと結論付けたかったのであるが。それは表の世界であったか。裏の深遠なる暗闇の世界は限りなく続いていたのか。
 哲学にも少しずつ入っていきますか。本書の初版が1949年に創元社から出ていたのも驚きであった。
2015年4月29日

2015年4月30日
書評NO5 『悪魔と裏切者−ルソーとヒューム』(山崎正一+串田孫一 ちくま文庫
 2014.11)
 ルソーは、1750年ディジョンのアカデミーの懸賞論文に『学問芸術論』で当選。1752年オペラ「村の占者」を上演し、国王ルイが15世の年金を下賜しようとするが拒否している。そして、『人間不平等起源論』やベストセラー『新エローイズ』などを発表し文壇の寵児となっていく。そんな中1762年に『社会契約論』『エミール』を刊行し、同書は焚書となり逮捕令が下る。この件はNo2『エミール200年の旅』に記している。
 そして、本文始めのブフレル伯爵夫人の要請により救済者ヒュームの登場となるのである。表題の書物のヒュームは、なぜかルソーにイギリス国王ジョージ三世からの年金を獲得してやることが、最大の貢献であると考え実行に移す。しかしルソーは「私はイギリスへ物乞いするためにやってきたのではありませんでした。私は自己の生計の資は、たずさえてきたのであります」と言い、「私はスイスを、残酷な取り扱いに悩まされて立ち去りました。しかしこの場合には、私の一身上の安全がおびやかされただけのことでありまして、私の名誉は安全であったのです」。
2015年4月28日
書評NO4 『悪魔と裏切者−ルソーとヒューム』(山崎正一+串田孫一 ちくま文庫2014.11)

書評NO4 『悪魔と裏切者−ルソーとヒューム』(山崎正一+串田孫一 ちくま文庫
 2014.11)
 「私はあなたを裏切者だと思おうとしている」としたためられたルソーからの7月10日付けの手紙を受け取ったヒュームは、7月22日に合理性のない理由であなたに私が裏切り物であると邪推を受けるのであれば、「私は最早あなたが私の敵であるということをいまさら疑う必要を認めませぬ。さようなら、しかも永遠に」と最後の返書を書く。しかしそれ以前の7月15日にデイヴンポートに「彼の嘘いつわりは悪魔のごときものがあると私には判りました」と書き送っている。
ここに悪魔=ルソー、裏切者=ヒュームが出揃うことになる。
 しかし本当にルソーは悪魔か。ヒュームは「無辜」の裏切者か。
2015年4月27日
書評NO3 『悪魔と裏切者−ルソーとヒューム』(山崎正一+串田孫一 ちくま文庫2014.11)

 その後ルソーは1766年1月に渡ったドーバーを1767年5月に逆行しカレエに着いた。ヒュームはパリ高等法院宛に逮捕されないように友人に頼んだと本書にある。しかし、ルソーがパリの入ったのは、著作をしないという条件で1770年だったそうだ。その2年半ほどルソーはコンチ公のトリー城に一年、その後ルヌーと偽名にしてリヨン、シャンベリーなどを放浪する。逮捕令が無効になったとは出ていないようだ。
 本書にはヒュームがイギリス国王ジョージ三世にルソーへの年金を下賜されるよう友人を通して奏上し年1百ポンドと決まったと知らせている。しかしこれは様々な事情(いわばルソーが年金を受け取るに際しての条件)が重なり旨くいかなくなるのである。そして両者の喧嘩の原因は、ルソーが年金を承諾するよう求める返事の度重なる督促に対して出した不可解な返書(絶縁状)にあると見ている。即ちヒュームはダランベールやヴォルテールらと組んでルソーを陥れフランス社交界での地位を高めようとしているのだというルソーからの返書である。
2015年4月25日
書評NO2 『悪魔と裏切者−ルソーとヒューム』(山崎正一+串田孫一 ちくま文庫

 小社は1987年12月に『エミール200年の旅』(秋葉英則 清風堂書店)を出版した。それに当たって、もしくはそれ以後も著者と一緒にルソーの亡命地を訪ねる旅を9回開催している。毎年の夏に読者約30人を伴って。

 本書の書き出しには、ヒュームがルソーの救済をブフレル伯爵夫人から依頼されたのは1762年の夏とある。それを受けて、ヒュームがルソーに宛てた最初の手紙は同年7月2日。ルソーがそれを入手して、受諾した返書は1763年2月である。
 そして、ルソーがヒュームに宛てた永遠のお別れ状が1766年7月10日、これに応えたヒュームのものは同年同月の22日となっている。4年間の出来事であった。何があったのか。
2015年4月23日
書評No1 『悪魔と裏切者−ルソーとヒューム』(山崎正一+串田孫一 ちくま文庫 2014.11)

 2年前に書店に入った次男からこの3月に「『脊椎間狭窄症』よりも書評を書いて欲しい」と言われて悩んでいた。商売がら日曜日に載る5大紙それに「読書人」「図書新聞」など毎週目を通しているのだが、自分で書くのは難しいと。

 第一、紙面で紹介されたものを店頭に必要かどうか判断するだけで、終われば瞬時に忘れてしまっている。書く前から書評とは何かと考えてしまうのである。

 さて本書を買ったのは二つの動機があった。ひとつはある人から「裏切者」と言われるような故なき私信を貰った。もう一つは20年も前にロンドン郊外のチゼウイックを訪ねたことがあるからである。もちろんルソーが亡命していた宿を探してのことであった
2015年3月14日
脊椎間狭窄症No85


 今年も早3月。朝のウォーキングは京橋から大阪城に入り天満橋を渡り中の島公園を通って東梅田の会社まで約1:30である。コース上にある季節の花は梅林・桃園そしてバラである。これらのボリューム感は圧倒的である。ボケ防止に中の島のバラ200株の名前の暗唱を繰り返して歩いているのである。その梅が今満開である。先日京都城南宮のしだれ梅を観賞した。規模は大きくは無いが、雰囲気もあり、えもいわれない竜宮城の趣があった。
 昨年丁度この時分から裏山に行き始めたようだ。今日も2:30コースを回って来た。昨年の暮れには六甲山にも登れたが、その後は一進一退している。今年のゴールデンウイークには比良山を目指したいものだ。
2015年1月25日
脊椎間狭窄症No84


 インフォームドコンセントなるものにより、最近随分と患者の意見を医師が聞いてくれるようになった。しかし、患者が自分の体のことをどう伝えてよいのかそれが良く分からない。私などはどうしても聞いて欲しいときには、これまでの経過をプリントアウトして先生に提出し見てもらいながら説明してきた。
 また自分で勝手にセカンドオピニオン制を敷いて、あちらの検査結果をこちらに伝えるということもしている。それでも勿論十分旨くいくということは無い。靴の上から足を搔くようなもどかしさをいつも感じている。
 それとは違うが、本日1月2日から3週間ぶりに裏山の獅子窟寺の奥山を2時間余り回って来た。上り下りの痛みもかなり軽減したように思う。そう思いながらはっと気づいたことがあった。これは普通の状態から判断し始めているのではと。
 この3年間は、特に昨年の春までは一日で1時間程度をそれも1回30分がやっとと言う状態であった筈である。それが、痛みが出るとはいえ毎朝1:30〜2:00歩いて出社できるようになった。その上5時間のハイキングも可能になりつつある。ここまで来ているのだが、前回のことで落ち込み、痛みを堪えて歩き続け本日と相成った訳だ。簡単に「普通」を取り戻せはしないとも思われる。

 どーも酒を飲んだ明くる日の歩行時に痛みが出るようだ。関係があるのかな。
2015年1月7日
脊柱管狭窄症No83

 明けましておめでとう御座います。

 今年の年賀状にこの病は昨年11/30に六甲山に登ることができたので、手術から3年掛かって「克服」できた。と書いた。しかしである。1/2に中一の孫2人と裏山の交野山(350m)に4回・6時間のアップダウンをかけた。当日は前夜からの降雪もあり、低山にしては梅田方面や阿倍野ハルカスへの見晴らしも良く、一面の雪化粧で、小動物の足跡が可愛らしくて大満足であった。
 しかしである。明くる日から左足腰にダメージがでた。痛くて歩けないのだ。
3年前術後3ヶ月にしてこのコースを5回上り下りし、元の木阿弥となった瞬間がよぎった。「やはり駄目だったか」と。実は11/30六甲、12/21交野山4回とやって今回だったのである。約1ヶ月にほぼ同じ標高差を3回チャレンジしたことになる。
 性格が出ている。反省していない。年を考えていない。頭を抱えてしまった。
 それでも性格を超えて、1/3から本日まで1日2時間、痛み止めを服用しながら歩いたものだ。かすかに改善の兆しが出てきたように思える。
 今年は慎重に。そう言えば、1/3の枚方の百済神社のおみくじは「末吉」だった。
2014年12月1日
脊柱管狭窄症No82

 11月30日(日)に六甲に行ってきた。有馬の金の湯につかりご機嫌で帰宅した。何年ぶりになるかなぁ。8:30に阪急岡本駅を出発し、風吹岩、東お多福、雨ヶ峠、七曲を経て12:00一軒茶屋、14:00有馬かんぽの宿である。お風呂は、日祭日は1000円の入浴料。さすがに七曲最後の階段では、足が固まりかけた。ヤバイヤバイ。
 最近左足裏に痛みが出る。登り始めると消えるのであるが…。右の股関節も。すきっとすることはもう無いのかもしれない。
 これからの人生と同じでだましだましということか。六甲銀座通りは相変わらずの賑わいであった。
2014年9月22日
脊柱管狭窄症No81

 もう間もなく術後3年を迎える。
 昨9/21に比叡山(標高860m)に登ってきた。叡山ケーブル下駅の一つ手前、三宅八幡から雲母坂を経て頂上を目指し、根本中堂等を見学して琵琶湖側の坂本へ下山した。4時間ほどであった。
 まあ何と言っても感無量なのである。ここまで回復したかと。7/6に大文字をやってから2ヶ月と少し。やはり本日は両の股関節に若干の違和感がある。朝のウォーキング時も右の股関節に痛みがあった。どちらかというと登りより、降りが堪える。現在痛み止めの投薬も止めている。この所、下半身に筋肉をつけるために、毎週のように裏山(2時間コース)をこなしている。朝2時間弱の散歩も。このように地味な努力が実ってくれれば言うことは無いのだが。10月は六甲である。6時間は掛かるなぁ。5時間弱の有馬コースは閉鎖中らしい。
2014年8月4日
脊柱菅狭窄症No79

脊柱菅狭窄症No79(2014.8.4)
 足腰闘病記では一般論になってしまうので、タイトルを変えた。この所、毎週のように裏山に登っている。標高324mだけれども、上り口は恐らく100mはあるだろう。実際は200mということになる。昨日は暑くて、蚊を10匹は捕った。ということはそれ以上刺されたということだ。主に両肘を額である。2時間足らずの間である。汗を流し放しにしていると、直ぐに痒みもとまる。昔ながらのアンモニア療法である。
 さてしかし、この頃左足土踏まずの周りに痛みが出る。暫く歩いていると治まるのであるが、少しずつ気になっている。それと歩き始めて、20分ぐらいで相変わらず右腰間接付近にも痛みが出始める。これも30〜40分すると治まる。まあ、1年前には裏山にも行けなかったのだが、思いようによっては随分「回復」したように思うがどうであろうか。
2014.7.13
足腰闘病記No79

 前回は7/2に書いたのだが、要領が悪くてHPにアップしなかった。今回その後を記してみる。No78にある「次の日曜日」とは7/6のことである。大文字山(465m)に行ったのであった。全行程は2時間半程であったか。京都市内の全景が一望の下に展開し壮観であった。雨模様ととはいえ、大阪梅田のビル群やアベノハルカスも眺望できた。降ったのは新島襄と八重のお墓である。それからバルテュス展を見てきた。やっとここまで回復したかと感無量なのである。本日は雨の中を交野の裏山(324m)を軽く流してきた。もちろん下半身は完璧ではない。何だかジュクジュク、痛いのやら、痺れがあるのやら複雑ではあるが、動けない症状ではない。ぼちぼちやりますか。
2014年7月2日
足腰闘病記No78

 6月はどうしたことだろう。1度も書かなかった。実は以下のとおりであった。
 秋の六甲を目指して、6/1,6/8,6/15と裏山に入った。最後に例の違和感があり、6/22はお休みにした。6/29は前日に少しお酒も入っていたが、深入りしない(324m付近をうろうろしない、コースを変えないでそのままUターンして降りる。約1時間半)という前提の下に実行した。案の定20,30分もすると、左足裏に痛みが出始めた。スピードダウンして続けていると、あら不思議、気にならなくなった。ふむこんなこともあるのか。まあそれから現在まで毎日出勤途上で2時間前後ウォーキングを繰り返しているが大丈夫のようだ。鍼灸も3週間通っていない。
 それで次の日曜は京都に出て3時間半コースを予定している。どうであろうか。
2014年5月24日
足腰闘病記No77


 5月に入って3回目。
 調子のいい証拠か。と思いきや…。
 今日は裏山・標高324m・2時間コースへ。No73から3ヶ月も経っている。「くわばら……」が効いてしばらく謹慎していた。しかしその後の経緯もあり、というのも室生寺などだが、継続できるように成りたい、登れるように成りたい、そして秋には六甲にという「大望」を抱いてしまった。今も降りてきて何とも無いとは言えない。左足裏と右腰に痛みというほどではないが違和感がある。平地2時間とは違う。昨日の店売は良かった。という滅多に無い一瞬が偶にあるように、「大望」への思いもあっていいと勝手に考えている。
 ぼちぼちでも少しずつでも前へ行かんと酒も旨くないぞ!
2014年5月15日
足腰闘病記No76

 珍しく連日の投稿となった。
 昨日書いた、このところ痛みが目に見えるように軽減した。であるが、どうも本物のようである。最大の原因は、リハビリ体操を止めたことにある。と思っている。脊柱間狭窄症や腰痛の対処療法の本の導きを受けて熱心に一日も欠かさず行っていた。と言っても5〜10分程だが。手術後2年数ヶ月。最初の半年は天国から地獄であった。術後は全く痛みが消えて、2か月後には裏山に毎週出かけていた。5時間歩行も可能になりそろそろ六甲山か。と思った矢先に下半身が痛みで動かなくなったといって良いだろう。これが術後半年の経過である。それから毎日痛みに堪えて20〜30歩行を繰り返していた。電車で立つのも辛かった。1年後針治療を発見するのである。それで一気に1時間半歩行にカムバック。しかしそれでも足の痛みは次のように出ていた。歩き始めて5〜10分経つと右腰が痛み始める。スピードダウン(時速5.7kmを5.0kmへ)するとまあ何とか続けられる。しかし今度は左足裏に間断的な痛みが走る。さらにスピードダウン。このように我慢ができる状態を作りながら家から駅までかなり遠回りして35分少々歩く。通勤電車を1時間手前で降りて、さらに歩いて会社に入る。これを約1年間繰り返していたのである。凝り性なので雨の日は梅田の地下街のコースを取っていた。それでNo74となる。まだ色々試したものがあるが。我流である。追々記す。
2014年5月14日
足腰闘病記No75

 5/4に室生寺の石楠花を見に行った。それもハイキング道を約3時間歩き、お寺の400石段の上り下りもしてきた。どうなったのか。これには深いわけがある。あれは4月の上旬であったか。30分ほど大阪駅の周りを散歩していたら、右足裏が痛くてどうしようも無くなって、ホウホウノテイで帰り着いたものだった。それでこれはどうしたものかと自問自答してみた。2年前の術直後の経緯は書いた。しかしそれを省いてもリハビリ体操は忠実に毎日実践していた。それもこのところ例によって激しくなっていたのである。性格である。一度これをすっぽり中止してみよう。もうそれしかない。それでも直らなかったら医者にまた相談に行かなければならない。
 と決心した。
 それが吉兆をもたらしたのである。2〜3日で痛みが和らぎ、一月で目に見えて楽になり、今は殆どしなくなった。といってもよいだろう。これは一体何だろうか。室生寺もかなり用心したが、2〜3日で元に戻った。200〜300mのアップダウンはあったのであるが。
 まだ正直半信半疑で自信があるわけではない。
 もう少し様子を見てみる。
2014年3月15日
足腰闘病記No74

 先週から今週にかけて調子が悪い。痛みが両足に広がっているように思う。だから、折角今年になって意気揚々と始めた裏山登りも見合わせている。どうも降りになると足腰の負担が何倍にもなり、ひと足ごとに下半身にくる。また、それまでは1日15000〜20000歩を平気で実行していたが、5000歩分減らしている。速度も落ちてきた。これはどうしたことか。3月に入って、鍼の治療も隔週にしたが、どうも持ちそうになく毎週に戻した。本日その旨先生に伝えた。
 すると少し強力に施術していただけたのか、日暮れが近づくにつれて調子が上がり、今夜も少々頂けそうな雰囲気で知人を誘ってしまった。吉田類ではないけれど、それでは行ってきます。
 朝、どうですか聞かれて、美人の先生にこう言ったものだ。「私は毎日1〜2時間歩けて、一日置きに飲ませてもらえれば、私生活は満足なのです」そー言えば宇津井健さんもお隠れになったようだ。あと一回りかな。
2014
足腰闘病記No73(2014.2.11)

 先の日曜日9日はホントに大久しぶりで一日中寝ていた。土曜日に飲みすぎて、喉がやられた。得意の塩水でうがいしても痛みが去らない。私の風邪は喉から必ずやってくる。ここで堰き止めないと2〜3日で本格化する。その後は鼻水、涙、咳と凄まじいのである。あれは懲り懲り。壮絶さは骨身に染みている。
 そのお陰で月曜は快調で会議の後すこしすごした。
 本日は8時に起床し、2月になって始めての裏山行き。324mである。先日来の雪が解けず、頂上付近の日陰の道は一面真っ白で、滑る。少しふると枝も折れるのである。熊笹が道を塞ぎ、歩きにくい。ハイキングコースではありません。事故は自己責任で。との標識が風に揺れている。2年ぶりに戻ってこれた。感無量と言う所か。2時間半ほどで戻って来た。前回と比べると1時間も延びている。調子に乗ると足に痛みが走る。くわばらくわばら。
2014年1月13日
足腰闘病記NO72(2014.1.13)

 春の裏山であるが、1月1日と3日に実行した。具体的には元日は中腹のお寺まで。3日は標高320mの頂上を極めた。41歳で登りはじめた事を思い出しながら。あの時はこの程度でも息は切れるわ、足は吊って何度も休み休み散々で、正直「えー」と山登りはこんなにシンドイモノカとビックリしたものであった。
 今回はゆっくり登って、1時間半で降り立った。これはいけるかもと思ったものだ。しかし、若干の後遺症が出ているのではと危惧している。だから当面は一月に一度にしたい。今日も2万歩弱を目指しているが、少し腰に痛みが出ている。70を超えて来ると自重しながらが肝心である。
 さてそろそろ帰宅しようか。
2013年12月7日
足腰闘病記No71

足腰闘病記NO71(2013.12.7)
 先月11月で手術後2年となった。先日主治医に診てもらった。「第4と5腰椎がくっつくと痛みが無くなる。と仰いましたが、どうでしょうか」「レントゲンを撮って見ましょうか」診てみると、全くきれいに等間隔に離れていた。「これで痛みも少なくなり、毎朝1時間半から2時間歩けるようになったのですがどうでしょうか」「この神経が触っているのではないかと思っていますが、自然に痛みがなくなることもある」というような会話で、半年後にということになった。痛み止めも毎食後であったが、朝だけにしている。昼夜はあまり歩かないからだ。今年初めから鍼治療に毎週1回通っている。指した鍼に電気を通すのである。これが何だか良く効いているように思う。毎朝かなりの距離を歩く様になって、7月には総コレステロール166→144、中性脂肪187→113、HDL55→61と劇的に回復している。空腹血糖は113→115と高めの推移。まあお酒も週に3〜4回と減ってはいるが。次は血圧だ。降下剤を服用して何とか正常値になってきた(120台と70台)。冬になってもこれでいって欲しいものである。春に裏山に登れる事を目標にしているがどうであろうか。
2013年9月15日
足腰闘病記No70

 何だか書きこみが段々間遠になっている。9/8(日)に業界の集まりがあって、有馬のかんぽの宿に泊まり、名物金の湯に3回入った。翌朝の清清しさはどうであろうか。昨夜かなり過ごしたのであるが。それに心なしか足の様子もいいようだ。六甲登山口を横目で睨みながら、1時間ほど散策した。金の湯は効きそうだ。 
 流石に標高が450m超えるだけあって、涼しい。それで先週はずーと調子がよかった。大げさに言えば、秋も深まれば自宅の裏にある350mの私市でもと思い。いやいや来春まではこのまま毎朝1時間半のリハビリに励んで、それから様子を見ないとなどと空想が飛躍していた。
 今のところ時速5.2キロを超えると痛みが出る。4キロ台だとかなり調子よく歩けるようだ。ハリに行く前はこんなことを考える事すら出来なかった。あれから半年を経った現在の状況である。少し回復の見通しがでてきたというところか。
2013.7.23
足腰闘病記N069(2013.7.23)

 近ごろ右膝に痛みが出るようになった。少し不安である。これは膝そのものから出ているのか、やはり脊椎の手術を施した箇所からなのかと考えあぐねている。6/23に快方に向かっているのか止まっているのか良く分からないと書いた。それが悪くなっているのではないかと思い出したのである。だからこの一月あまり、どんどん距離を稼いで、朝の通勤時に一日2時間の歩行を常としてきたが、1時間半程度と速度とともに落としている。モーラステープの使用も頻繁になっている。割と効くのである。それで今週月曜日に内科の診断を受けた。ところが6/3の定期健診(すべてA)の血液検査の数値が悪くなっている。トレッドミルによる負荷心肺機能検査は6分間ほど汗だくになって実施したがパスしたようだ。じつは狭心症の常備薬を携えているのである。空腹時血糖値が113(60〜99)と出た。随時血糖値(0〜139)ならOKだが。古希を越えるとやはりなあと言う感じである。今日は別の心配事があるので、とりとめの無い事となってしまった。
2013年6月23日
足腰闘病記NO68

 前に向かっているのか、後退しているのか、それとも止まっているのか、良く分からない状態が続いている。それでもふとふり返ってみると、ハリ治療の前は、朝起きた途端しばらく痛くて、食事に座って何とか痛みが無くなり、それからやっと20分歩行に移ったものだった。まあこの当時(昨年の春から暮にかけて)は、歩けるものの1時間も連続してとはとても考えられずに、重い気持ちであったなあ。東京に出張しても、それ以前(2011.11手術前)は北の丸公園を1時間半あまりかけて散策し、公園の樹木や草花の名や花、葉っぱ、幹の形を覚えるのを楽しみにしていた。それが全く中断してしまい、やっと20分ばかり歩いて東京の組合事務所に向かったものだ。
 今はどうだ。朝の通勤では、家からH市駅まで30分余を歩き、K駅で下車し1時間かけて中之島公園のバラの名前を復唱しながら会社にたどり着く。その始めの30分に痛みがあるので不服を唱えているのである。もちろん歩速も時速5キロ前後で通勤の早足サラリーマンには軽く追い越される。早めると痺れや痛みが出るのである。
2013年5月23日
足腰闘病記NO67

 なかなか一直線に行かないものだ。それどころかよたよたと行きつ戻りつの真っ只中だ。いやそれも実は良く分からないのである。
 先日あるお客がやって来て、「私は以前腰痛が劇的に走り、痛くてどうしようもなく、女房の背中にやっと摑まりつつ辿り着き、電気ハリ治療を行った。効き目はそれこそ身体が反り繰り返るほどであった。しかし1時間後には歩けるようになった。あれは痛みを電気とハリでブロックしたのであろう」と。3日〜一週間でその後は通ってないそうだ。
 私は2011年11月24に手術、2012年2月にハイキングから山歩き5時間の後4月ダウンして、5月23日神経根ブロック手術、2013年1月鍼灸治療開始し、4月より電気ハリに入った。現在は特別な事が無い限り、毎朝1時間半歩いて通勤している。
 やっとここまで来たかと思う傍ら、時折痛みや痺れが伴うので、このまま治っていくのか、それともまた悪化するのか良く分からないのである。
2013

2013年5月1日
足腰闘病記NO66

今年1月15日、久しぶりにセカンドオピニオンの先生を訪ねました。再び鎌首をもたげてきた左足首の痺れと痛みが心配なのです。そうすると@手術後のMRI,Aその時の所見、B昨年5月に行った、神経根ブロック手術時の造影剤写真を貰ってきてください。と言われました。2月26日の定期診断時にその旨申し上げ、翌日再訪しつくっていただいた書類をお渡ししました。それをご覧になりながら、「脊椎4,5を接合するにせよ、どの神経が今の症状をもたらしているのか特定する検査が必要です」と告げられ、「どこでしますか」と尋ねられました。一息考え「手術を執刀した先生にお願いします」と話すと「その旨の所見を書いてくださいました。それをお渡しするのが今月の28日と言う事になります。どうして、3ヶ月も日が経ってしまったのか。この次に記します。
2013年4月22日
足腰闘病記NO65

 新年のご挨拶から、新学期を迎え、恒例の造幣局桜の通り抜けも本日が最終日となりました。全く光陰矢のごとしなり。1月18日から、とうとう藁をもつかむ思いで、週一で針治療を始めました。会社から往復で2時間掛かります。整形外科医ではこれを許可しませんでしたが。4月5日でしたか、刺した針に微弱な電気を通しました。
 これまでも電気治療をした事がありますが、これは初めて。先週4月20日で3回目となりました。何が幸いする事になったのか分かりませんが、「劇的」と言っても良いのでしょうか、本日は出勤前に1時間30分のウォーキングができました。まあだいたい思い込みの激しい性格なので、このまま歩ける距離が伸びていくとは思いませんが、正直びっくりしています。
 この4ヶ月の間には色々あったのです。追々書いてみます。
 
2013年1月1日
明けまして おめでとうございます

明けまして おめでとうございます(2013年元旦)
経済や福祉はマイナス、マイナスとどうでしょうか。わが社も出版業界も難業続きです。この間『道化の民俗学』(山口昌男)を読んでいたら、道化師はプラス、マイナスを合わせ持っているとありました。今年はこの秘訣を会得すべく瞑想に耽りたいと存じます。
足腰は元の古傷(左足裏)の痺れがじわじわーと出てきているようで気味がわるいです。第4,5腰椎が接着すれば果たしてそれがなくなるのか、ひどくなるのか。今のところ右足は少しずつ回復に向かっているようです。
 皆様もお身体お気をつけください。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます
2012年12月18日
足腰闘病記・NO64(2012.12.18)

11月20日の検診は終了した。それからでも殆ど1か月になる。当日本レポートNO62、63を持参しドクターに見てもらった。口で説明するより良く分かっていただけると考えたからだ。すると「以前患っていた左足裏に時折痺れを感じる」のところに赤ペンを入れていただいた。さて、「先生背骨が曲がっていると別にの病院で指摘されましたが、どうなんでしょうか」「それもあるが、第4,5関節の半分が接合し始めているようです」「ええっ。どうなりますか」「いや、いっその事引っ付いたほうがいいのです。痛みも出なくなります」「そういえば先生、以前、この関節をボルトで接合しますか。と言われましたね」。そうであった。確か6月5日の検診時に言われたとNO59(7月23日)に記している。
 それが自然にくっつき始めたのかこのところ歩くのが随分と楽になった。初めの20分が少しつらいのだがそれを過ぎると楽になり、1時間以上は大丈夫になってきた。最近「これは」と素人判断ながら「糠喜び」している。最近このようなことを誰彼なしに話していると「頚椎の具合が」だとか脊椎関係の話をよく聞くようになった。次の検診は2月26日である。どうでることやら。
2012.10.24
足腰闘病記・NO63(2012.10.24)


まあ身体は正直である。年を取るとそのとおり老けて行く。なまじ「鍛えよう」などと思って何か始めるととんでもない事になる。元々オヤジ似で骨も脆弱。先週痔の3回目「手術」を行なった。事前のレントゲン検査の写真を見てみると背骨が歪曲している。この先生の今回の担当箇所は脊髄ではないので、この手術には影響無しということになった。来月下旬に脊柱管狭窄症の手術をして一年となる。聞いてみなければならない「先生曲がっているそうですが、どうなんでしょうか」と。あの先生ならきっとこう言うのではなかろうか。「そんなことは前から分かっていた」と。今の状態は朝起きて直ぐには痛みが出る。それで30〜45分歩くとほとんど痛みを感じなくなる。快方に向かっているのか、小康状態か、7月時点からは随分と「良く」なったようだが、これ以上は無理なのか。分からない。不安な状況が続く。
2012年10月4日
足腰闘病記・術後11ヶ月NO62

9/24から1時間歩けるようになった。先週はそれでも20分歩くと痛みを感じるようになり1〜2分休んで再出発、それからはほぼ1時間30分でも可能となっていた。ただ、以前患っていた、左足裏に時折痺れを感じるようになった。昨年の11/28の手術はその左足裏の痛みが激しくて踏み切ったのであった。それで少しでもそれらしき気配に触れると事の外ビビるのである。実は今週も東京出張があり先週に続き飯田橋の宿から北の丸公園・皇居、日比谷公園と1時間半ウォーキングできたのであった。3/18にダウンしてから実に半年でここまで回復した事になるのであろうか。腰痛リハビリ体操も実施してきたが、最近はどうもそれが痛みを誘発している気がして中止している。腰椎第4,5関節管を手術したわけだ。確かに管は広くなった。それによって左L5の神経は開放されたそうだ。しかし右L4に引っ掛かりが出来たのかもしれないと言われていた。それで今年5/23に神経根ブロック手術を行なった。それからだと約4ヶ月と言う事でもある。来月20日は検診日である。それまでに症状が改善しているか、痛みが出てき始めたか不安な日々を過ごす事になる。まあしかし毎日1〜2時間歩行は続けたいと思う。なにせその晩のお酒が美味いから。
2012年9月27日
足腰闘病記再開No60?

随分長い間、HPのリニューアルに掛かってしまった。さて出来具合はどうでしょうか。私の足腰も激変したようだ。特に今週からあまり痛みを感じなくなっている。本当かどうか疑わしい。その代わり左足裏の外側部分に時々痺れが出るようになった。ふむこれでは元の木阿弥ではないか。と不安がよぎる。それも22日土・祝はまだ何時もと変わらずに1時間歩くのがやっとという状態であったのにだ。今朝も宿の飯田橋から北の丸公園をぐるぐる巻いて東京駅まで約1時間半を殆ど痛みを感じることなく歩き通せた。まあ言わば画期的なことである。これがもう5日間続いている。治ってきつつあるのか。半信半疑である。
2012.9
ホームページリニューアルのお知らせ

このたび、お客様により便利にご利用していただけるよう
ホームページのリニューアルを行いました。

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清風堂書店


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